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東京地方裁判所 平成2年(ワ)183号 判決

原告

亡永瀬孝治訴訟承継人兼本人

永瀬哲哉

原告

亡永瀬孝治訴訟承継人兼本人

永瀬ミチ

右両名訴訟代理人弁護士

椎名麻紗枝

中澤裕子

被告

財団法人自警会

右代表者理事

井上幸彦

右訴訟代理人弁護士

児玉康夫

竹田真一郎

主文

一  被告は、原告ら各人に対し、各三五六六万九五二八円及び右各金員に対する平成二年二月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

二  原告らのその余の請求を棄却する。

三  訴訟費用はこれを五分し、その三を被告の、その余を原告らの各負担とする。

四  この判決は第一項に限り仮に執行することができる。

事実及び理由

第一  請求

被告は、原告ら各人に対し、各六二〇〇万八〇八二円及び右各金員に対する平成二年二月一日から支払済みまで年五分の割合による金員を支払え。

第二  事案の概要

一  本件は、亡永瀬孝治(以下「孝治」という。)が被告の開設する東京警察病院(以下「被告病院」という。)で下顎骨形成手術を受けた後に呼吸停止、心停止を起こして遷延性昏睡の状態となり、本訴提起後に死亡したことについて、孝治の両親である原告らが、被告に対し診療契約上の債務不履行又は不法行為を原因として損害賠償を請求する事件である。

二  争いのない事実及び証拠(甲一、四、五、乙一の一、一の二、原告永瀬ミチ本人)並びに弁論の全趣旨上明らかな事実

1  当事者

(一) 原告永瀬哲哉(以下「原告哲哉」という。)と原告永瀬ミチ(以下「原告ミチ」という。)は夫婦であり、孝治は原告らの次男である。

孝治(昭和四三年三月二日生)は、平成三年二月七日死亡し、その権利義務を原告哲哉及び原告ミチが各二分の一ずつ相続により承継した(甲一)。

(二) 被告は、被告病院を開設している財団法人であり、孝治は被告との間で、後記の下顎骨形成手術に関し被告病院で診療を受ける旨の診療契約を締結した。

2  本件医療事故発生の経緯

(一) 孝治は、昭和五四年八月、鹿児島市立病院で下顎骨繊維性骨異形成症との診断を受け、同病院において昭和五六年一〇月までの間数回にわたる手術を受け、下顎骨を全部摘出された(甲四、五、乙一の一、一の二、原告ミチ本人)。

(二) 孝治は、昭和六二年一〇月、鹿児島市立病院の紹介により、被告病院形成外科外来で診察及び検査を受け、下顎骨形成手術の説明を受けた。

その説明によれば、右手術は二回にわけて行われるもので、一回目の手術で手足からとった皮膚(肉、血管を含む)を使って萎縮した下顎部分及び口腔前庭の皮膚を形成し、人工骨を入れてなじませ、さらに三か月おいて、二回目の手術で腸骨から骨を取り下顎骨として形成、移植するというものであった。

(三) 孝治は、被告病院の指示に従い、昭和六三年二月一八日、一回目の手術を行うため、被告病院に入院した。

(四) 同年二月二三日、孝治は、被告病院において大森喜太郎医師、小林誠一郎医師の執刀により、左前腕と右脇腹から鼠蹊部にかけて皮膚、肉、血管を取って下顎部に移植し、人工骨を入れる手術を受けた。

右手術は、九時間一五分を要したが、この手術で縫合連結した皮弁の血管に血栓が発生したので、再手術を行い、この部分の血管を切除して、その部分に左足内側の伏在静管を移植した。再手術は三時間を要した。

(五) 被告病院は完全看護で、原則として付添いを認めなかったが、孝治については、手術後、特別に原告ミチの付添いが許可された。孝治は、手術後経鼻にて気管内挿管されていたが、同月二五日に抜管(気管への挿管の抜除)された(乙一の一)。

(六) 孝治は、同月二六日にはナースセンター前の四人部屋から通常の六人部屋に移され、看護婦が随時行っていた唾や痰の吸引も動かせる右手を使って自分でできるようになった。

(七) 同月二六日、手術日より特別に許可されていた原告ミチの夜間の付添いが不許可となった。同月二八日の段階で、孝治には、高熱、下痢の症状が見られた。原告ミチは再度付添いを申し出たが許可されなかった。

(八) 同月二八日深夜、孝治は異常状態となり、ベッドのまま看護婦室に搬送された直後、同月二九日未明に突然呼吸停止(完全に停止したかどうかは争いがあるが、以下「呼吸停止」という。)、心停止を起こした。孝治は、看護婦や当直医師の蘇生措置により蘇生したが、後遺症が残り、低酸素性脳障害による遷延性昏睡状態に陥った。

(九) 平成二年一月一一日、孝治(後見人原告哲哉)、原告哲哉、原告ミチが、被告に対し、本訴を提起した。

(一〇) 孝治は、昏睡状態のまま平成三年二月七日死亡した。

三  争点

1  孝治の呼吸停止、心停止の原因

孝治の呼吸停止、心停止は気道閉塞による低酸素症により、引き起こされたものか。

(原告らの主張)

孝治は、昭和六三年二月二七日夜から、担当の看護婦に対し、呼気時の痰のつっかえ感、呼吸苦を訴えるほか、精神的に興奮状態となり、不安な感情を訴えており、また、担当の看護婦において喘鳴を聞いており、同月二八日になると一旦治まったかのようにみえたが、午後には再び呼吸苦、鼻閉感を訴え、夜に入ると、混乱・興奮し、多弁となり、呼吸も荒く、発汗も多量であったというのである。興奮・不安・幻覚・幻聴は、低酸素症の兆候の一つであり、その他の症状をも考え合わせると、孝治は遅くとも同月二八日の時点では慢性呼吸不全による低酸素症の状態にあったものというべきであり、このような状態の下で、孝治は気道閉塞を起こし、低換気状態により心停止に至ったものである。

気道閉塞の原因としては、孝治の下顎部を主とする広範な手術侵襲による周囲組織の炎症、浮腫、血液及び分泌物の貯留等により、咽頭、喉頭、気管、気管支等の収縮や閉塞が生じたことが考えられる。

(被告の主張)

(一) 孝治の心停止以前二日間にわたるいわゆる不穏状態は、一般に見られる術後の不安等に基づく精神症状にすぎない。

(二) 孝治に対して行われた手術は、喉にわたる手術ではないから、気管切開による呼吸管理を必要とするものではない。再手術後の翌日に行ったレントゲン検査上肺野に異常陰影はなく、血管上貧血の所見もなかった。手術後同月二五日までは経鼻の気管内挿管による呼吸管理がされており、抜管後は小林医師により呼吸状態、咽頭等の状態が注意して観察され、異常がないことが確認されている。同様に、胸部聴診上も、また、抜管前日の胸部レントゲン上も異常がないことが確認されている。同月二七日夕方の同医師の診察においては、呼吸状態、咽頭等に異常がない事実に加え、皮弁刺針により血液が鮮紅色で非常に良好な色であったこと及びチアノーゼもないことが確認されている。さらに、同月二八日夜には、当直の有賀医師が孝治の気道を診て閉塞のない事実を確認している。

孝治に低酸素症が発生していたとするならば、チアノーゼの症状が出現していなければならないが、同月二九日に看護婦室において孝治に異常事態が発生する以前には、全く観察されていない。

以上のとおり、孝治に、慢性呼吸不全による低酸素症が発生していたという事実はない。

(三) また、孝治は呼吸停止、心停止直前まで意識があり、反射が消失しているなどということはなかったのだから、舌根沈下あるいは痰または唾の誤嚥による窒息は極めて考えにくい。

(四) 結局のところ、孝治の呼吸停止、心停止の原因は不明である。

2  責任原因

(原告らの主張)

(一) 術後管理

(1) 被告病院は完全看護体制をとっており、面会時間以外の患者に対する付添いは病院からの特別の許可が必要となっていた。したがって、入院患者は、被告病院の一〇〇パーセント管理下に委ねられるのであって、被告病院には、患者に事故が起こらないように十分配慮する義務があった。

孝治は、昭和六三年二月二三日、一二時間にも及ぶ手術を受け、さらにその後数時間後に四時間半に及ぶ再手術を受けている。手術の部位の関係上、身動きのできないまま回復を待っていたが、同月二八日の段階で高熱、下痢の症状が見られ、また手術が下顎の形成という咽喉部に関わる手術であったことから、唾、痰が喉に引っ掛かり絶えず吸引を要する状態であり、絶え間ない吸引から極度に体力を消耗していた。

このような患者に対しては、被告病院としては、通常の入院患者に対する以上に目を配り、孝治の容態の変化に機敏に対応し、不測の事態が起こらぬよう厳重な術後管理をなすべき義務があった。

しかるに、被告病院形成外科は夜間に入院患者一〇〇名に対し三人の看護婦しか配置しておらず、物理的にも個々の容態に応じた万全の術後管理を行うことはできなかった。しかも、同月二八日、原告ミチは、被告病院に対し付添いを申し入れたが断られている。

被告病院の担当医師には、孝治の状態に即応した術後管理を行う義務があったのに、以下のように、これを怠ったため、本件事故を引き起こしたものである。

(2) 孝治には、昭和六三年二月二七日の夜から呼吸苦、喘鳴、混乱、興奮、多弁、発汗、呼吸の荒さなどの症状がみられ、被告病院の担当医師は孝治の右症状の経過を十分に観察していれば、孝治の右症状から低酸素状態にあるという疑いを持ち、血液ガス検査の上、気管内挿管、気管切開等適切な処置をとることができたはずである。しかし、被告病院の担当医師は、看護婦が孝治の経過を観察し、看護日誌には右症状の記載があったにもかかわらず、必要な措置をとらなかった。

孝治の主治医の小林医師は、同月二七日、孝治の診療を行ったが、翌二八日は病院を留守にしている。しかし、当直であった有賀医師に特に引き継ぎはしていない。孝治は同月二八日の夜から同月二九日小林医師が出勤するまで、主治医のいない状態に置かれていた。看護日誌はその間、医師の目に触れていない。孝治の右症状が現れた段階で、血液ガスの検査を行えば、孝治が低酸素状態にあることは、診断可能であった。なお、看護婦には、特に医師の指示がない限り、血液ガスの検査を行う権限はなかった。

(3) 同月二八日午後一〇時ころ、南波看護婦は、当直の有賀医師に、孝治の容態を報告しているが、有賀医師は、血液ガスの検査をするなどして孝治の症状が低酸素症でないことを確認すべき義務があったのに、これを怠り、診療録、看護日誌で孝治の経過を確認することなく、孝治の症状を単に精神的なものと誤診し、呼吸抑制の効能を持つホリゾンを投与した。

さらに、ホリゾン投与後、孝治の症状がにわかに悪化し、呼吸苦、呼吸不規則の経過をたどっているのにもかかわらず、被告病院の担当医師は漫然これを放置し、孝治を呼吸停止に至らしめた。

(4) 孝治は、昭和六三年二月二八日夜の段階では慢性呼吸不全による低酸素症の状態にあり、孝治の心停止は気道閉塞による低換気状態によりもたらされたものであるから、同月二八日午後一〇時ころ、被告病院の担当医師がエアウェイ挿入、気管内挿管若しくは気管切開を行っていたならば孝治が心停止を起こすことは防止できた。

(二) 監視体制、蘇生処置

被告病院としては、昭和六三年二月二七日深夜以降の孝治の不穏状態に対し、あらゆる事態に備えて万全の監視体制をとるべきであり、孝治の容態をよく監視し、呼吸停止に直ちに対応し、気道を確保する等の処置を講じ、蘇生を図るべき義務があった。

同月二八日深夜、孝治は、不調を訴え、同室の患者が探してきた看護婦によって、ナースセンターにベッドごと運ばれ、翌日二九日未明にかけて同所において咽喉部を詰まらせ、呼吸が停止した。被告病院はナースセンターにおいても孝治の容態をよく監視し、呼吸停止に直ちに対応し、気道を確保する等の処置を講じ、蘇生を図る義務があったのに、これに直ちに気づかず相当期間、漫然と放置したため、後に蘇生を図ったものの、その間の脳血管の低酸素状態により脳に回復不能な損傷を与えた。

被告病院は、不調を訴えた孝治に対し、十分な監視義務を果たしていれば脳に回復不能な損傷を与える前に適切な処置をとれたはずであり、過失がある。

(被告の主張)

(一) 術後管理

(1) 手術に要した時間は、一回目の手術が九時間一五分であり、再手術が三時間であった。

当時孝治の収容されていたA棟八階のベッド数は七一床でうち患者がいたのが六〇床で、看護婦は日勤(八時から一六時)が一〇ないし一一名、準夜勤(一五時三〇分から二三時三〇分)が三名、深夜勤(二三時から八時三〇分)が三名であった。

原告ミチから再度付添いの希望がなされた事実はあるが、婦長は「在京中の息子さんのアパートに泊まり、面会時間外の朝からでも付添いにお出になったらいかがですか。」と話したのであり、付添いが不許可となったのは、許可したこと自体が当座に限っての異例の措置であったためである。

被告病院は、以下のように孝治の状態に即応した術後管理を行った。

(2) 孝治の昭和六三年二月二七日ころの症状は、術後の不安等に基づく精神症状であった。小林医師による同日夕方の診察においては、呼吸状態、咽頭等に異常がない事実に加え、皮弁刺針により血液が鮮紅色で非常に良好な色であったこと、チアノーゼもないことが確認されており、孝治には低酸素症は発生していなかった。

孝治の主治医は大森医師であり、助手に付いた小林医師が受持医となって術後の管理に当たったものであるが、同日夕方の右診察において、呼吸状態、精神状態の異常は認められず、何らの問題もなかったため、手術後ずっと病院に泊り込んで亡孝治の術後管理にあたっていた小林医師は同月二八日より二九日朝まで病院より辞去したものである。

(3) 有賀医師は看護婦の報告、口腔内の診察、肺野の聴診を行って異常のないことを確認した後、孝治の状態を術後不安による興奮状態としてホリゾンの投与をおこなった。三〇分後に確認のため再度孝治の様子を確認したが、孝治の興奮状態には変化がなかった。薬理学的効果である鎮静が出現していないにもかかわらず、呼吸抑制のみが出現することは考え難い。

ホリゾン投与を契機に孝治の症状が急変した事実は認められない。

(4) 孝治の呼吸停止、心停止は、気道閉塞による低酸素症によって引き起こされたものではないし、仮に、孝治の呼吸停止、心停止の原因が低酸素症によるものであったとしても、本件医療の経緯及び事実状況からすれば、孝治が同月二九日の夜に突然呼吸停止に至るなどということは、臨床医療水準上からは到底予見することが不可能であった。

(二) 監視体制、蘇生措置

孝治の術後の回復は順調であり、身体的に特に問題はなかったところ、昭和六三年二月二八日午後一〇時ころから精神的に興奮状態になり、多弁、多発汗、呼吸が荒く、看護婦に対して誰かが俺のことを何かいっている、眠れない等の訴えを始めた。このような孝治の症状に対しては精神安定剤の投与その他の適切な処理がなされている。そうしたところ、同日午後一一時四〇分ころ、孝治から、そばに看護婦がついていると少し落ち着くという訴えがなされた。このため看護婦が孝治に対し看護婦室に行くかと尋ねると同意したので、ベッドのまま搬送して移動させた。看護婦室において、看護婦が孝治の観察をしながら吸引、吸入等をなして看護にあたったが、その直後に孝治は突然呼吸停止、心停止を起こした。看護婦は直ちに人工呼吸を開始し、当直の医師も駆けつけて蘇生措置を行った。その結果、蘇生に成功したが、低酸素性脳障害の後遺症を残した。

このように、被告側が孝治の容態の監視を怠った事実はない。これは蘇生に成功した事実、孝治が長期間生存したという事実から明らかである。被告は、孝治の呼吸停止、心停止を直ちに発見し、直ちに蘇生に着手し、かつ、蘇生に成功したものである。

3  損害

原告らは、以下のような損害を被ったと主張する。

(一) 孝治の損害

一億〇四〇一万六一二五円

(1) 傷害による休業損害

孝治が遷延性昏睡状態に陥った後、死亡に至るまでの休業損害は一一八七万三二九六円を下らない。

(計算式) 4,347,600×2.371=11,873,296

ただし、年間予想収入は、昭和六三年度賃金センサス高校卒男子労働者年収額により、中間利息控除はライプニッツ係数による。

(2) 死亡による逸失利益

四〇二〇万三六三七円

孝治が死亡したことによる孝治の逸失利益は四〇二〇万三六三七円を下らない。

(計算式) 4,552,300×(1−0.5)×17.663=40,203,637

ただし、年間予想収入は、平成三年度賃金センサス高校卒男子労働者年収額による。

(3) 治療費 二四一万六〇三五円

(4) 付添看護料三三二万三一九七円

ただし、昭和六三年七月一日から平成三年一月末日までの間に支払った付添看護料及び家政婦紹介手数料五七〇万七二五四円のうち、保険で補填された一八七万八二八〇円を控除した額。

(5) 慰謝料 三五〇〇万円

(6) 葬儀費用 一二〇万円

(7) 弁護士費用 一〇〇〇万円

(二) 原告ら固有の損害(慰謝料)

各自一〇〇〇万円

第三  争点に対する判断

一  孝治の診療の経過について、前記第二の二の事実及び証拠(乙一の一ないし四、二、証人東直美、同有賀毅二、同小林誠一郎、同大森喜太郎、原告ミチ本人)並びに弁論の全趣旨によれば、以下の事実が認められる。

1  孝治は、下顎骨繊維性骨異形成症(ファイブロディスプラシア)により、昭和五四年八月から同五六年一〇月にかけて、鹿児島市立病院において、大小九回位の手術を行い、下顎骨を全部摘出された。孝治は、下顎骨を全部摘出した手術後の退院の際、鹿児島市立病院の担当医から、孝治の骨の成長が止まる成人を迎えるころに、下顎骨を形成できる旨の説明を受けた。

2  昭和六二年の夏ころ、孝治は、鹿児島市立病院に検診に行ったときに、口腔外科部長の増田敏夫医師から、下顎骨形成手術について被告病院にいる友人の大森喜太郎医師を紹介するという話を聞いた。増田医師の話では、下顎の形成に関し全部蝶番から取る手術は鹿児島ではできないから、実績のある被告病院を紹介するとのことであった。

3  同年一〇月三日、孝治は紹介状を持参して被告病院で受診し、手術をすることに決まった。同年一二月に入院を指示する連絡があり、昭和六三年二月一八日に入院した。手術日は同月二三日と決定された。

孝治の主治医は形成外科部長の大森医師、受持医は小林誠一郎医師となった。孝治は、手術前においては下顎の欠損があるほか、健康な状態にあり、手術前の検査では何ら異常は認められなかった。

4  同年二月二三日、午前九時四〇分から午後六時五五分まで、下顎骨を形成するための一回目の手術が行われた。執刀したのは大森医師及び小林医師であった。右手術は、左前腕部と鼠蹊部の皮弁(皮膚と皮下組織)を採取し、皮膚が拘縮していた口腔前庭部及び頤下部を切開して、その部分に採取した皮弁を移植し、レジン(樹脂)を用いて作った人工骨を移植した皮弁の間に挿入するというものであった。また、右手術による出血量は一七〇〇ミリリットルであった。

なお、その後三か月以上間をおいて、人工骨と自分の骨を入れ換える手術を行う予定であった。

ところが、右手術で縫合連結した前腕皮弁の血管に血栓が発生したため、同月二四日午前三時五五分から午前六時五五分まで再手術が行われ、血栓が生じた部分の血管を切除して、その部分に左下腿の内側の伏在静脈が移植された。右再手術は成功し、同日午前中に肺のレントゲン撮影をしたが、その結果では肺野に何らの異常も認められなかった。血液検査も行われたが、その結果では白血球が少し増加していたほかには貧血などの異常所見は認められなかった。

孝治の首や顎は包帯等によって固定され、口は他動的にはこじ開けることはできたものの自分ではほとんど開くことができない状態であり、言葉が話せず、筆談で意志疎通を行っていた。口腔内の分泌物(唾液等)が多いため、医師や看護婦に頻繁に吸引を行ってもらっていた。ナースコールも自分で押せないため、付き添っていた原告ミチが押すという状態であった。

5  孝治の手術後の呼吸管理は、経鼻の気管内挿管によりネブライザーに酸素を少し吹き込んだものを流して行われた。同月二五日に抜管(経鼻による気管内の挿管を抜くこと)が行われたが、そのとき胸部に雑音は聞かれなかった。同日午後九時ころ、孝治は咽頭痛を強く訴え、そのとき喘鳴が聞かれた。

同月二六日、孝治はナースセンター前の四人部屋から通常の六人部屋に移された。その日から自分で口腔内の分泌物の吸引ができるようになり、意思疎通も筆談に頼らなくても口頭でできるようになってきた。孝治は、そのころ、咽頭不快感を訴え、自分で頻繁に右吸引を行っていた。また、孝治の栄養補給は、抜管前は絶飲食で点滴で行われていたが、抜管後は、鼻から胃管を入れてそこからミキサー食を入れるという方法で行われるようになった。孝治は同日午前中も咽頭痛を訴え、そのとき喘鳴が聞かれた。

原告ミチは手術後ずっと孝治に付き添っていたが、完全看護体制をとっていた被告病院側から付添いを断られたため、同日午後八時ころ病室を出た。孝治は同日の夜からは自分でナースコールが押せるようになった。

同日、孝治には三八度位の発熱があり、下痢の症状がみられた。

孝治は、その日の夕方から深夜にかけて頻繁にナースコールをし、息苦しい、体が熱い、眠れないなどと看護婦に訴えた。特に、夜になると五分か一〇分おきくらいにナースコールをする状態であった。

6  孝治の受持医の小林医師は、同月二七日(土曜日)、朝、昼、夕方の三回孝治を診察した。同日朝、小林医師が聴診して呼吸をチェックをしたところ、胸部に雑音はなく、他にも特に異常は認められなかった。同日夕方五時か六時ころ、小林医師は移植した皮弁を懐中電灯で照らして、喉の状態を見て、右皮弁に細い注射針を刺し、その刺入によって出てくる血液の色を観察したが、鮮紅色をしていて非常に良好な状態にあり、右皮弁及び周囲の粘膜に異常な腫張はなかった。ただし、孝治は、その日、小林医師に対し、咽頭痛、不快感のほか鼻閉感を訴えていた。

小林医師は孝治の術後管理のため前記手術後ずっと被告病院に泊り込んでいたが、同日夕方の診察で、孝治の状態に特に問題はないと判断したため帰宅した。小林医師は孝治について当直の医師に特に引き継ぎはしなかった。

同日午前中、孝治は看護婦に対し咽頭の不快感を訴え、そのとき喘鳴が聞かれた。また前日と同様、孝治には三八度位の発熱があり、下痢の症状がみられた。

同日夜、孝治は頻繁にナースコールをし、看護婦に対し「頭が混乱してよくわからない」「起きたい」「寝ていると突然起き上がりそうだ」「よくわからない」「今何時」「ここはどこなのか」などと話した。そのほか、孝治には、午後八時三〇分ころ、吸気時の痰のつっかえ感、呼吸苦の症状がみられ、午後九時三〇分ころ、孝治はナースコールをし、看護婦に対し眠りかけたが痰がからんですぐ目が覚める旨訴え、午後一一時三〇分ころには喘鳴が聞かれた。

7  同月二八日になって一旦孝治の喘鳴は軽減したが、同日午前中孝治は口腔内の乾燥が強いと訴え、同日午後二時ころ、呼吸苦の訴えがあり、喘鳴が強くなった。その後何回か吸引を行い喘鳴は落ち着いたが、痰のからみがとれないということで、看護婦が頻繁に吸引を行った。孝治は、その時、看護婦に対し鼻閉感、咽頭不快感をも訴えていた。

同日午後九時ころには、孝治からの訴えはなく、午前中訴えていた背部の掻痒感は軽減していた。しかし、午後一〇時ころは、孝治は、呼吸が荒く、多量の発汗があり、南波看護婦が入眠を促したが、興奮して多弁であった。

当時当直であった有賀毅二医師は、南波看護婦からの電話を受け、患者が興奮しているので診察してほしいといわれ、同日午後一〇時一〇分ころ、孝治を診察した。孝治はかなり興奮状態にあり、「自分は立っているような気がする」と話した。有賀医師は、看護婦から孝治について呼吸が荒く、発汗が多く興奮し多弁であり、幻覚、幻聴があるとの報告を受けたが、喉の中を見ても格別の異常所見はなかったので、孝治は興奮状態にあるものの、これは術後の精神的不安によるものにすぎず、呼吸の状態に異常はないと判断して精神安定剤であるホリゾンを注射するよう南波看護婦に命じた。同看護婦は右指示を受けて、孝治にホリゾン一アンプルを筋肉注射した。その後、有賀医師は一旦医局の方に戻った。

同日午後一一時三〇分ころ、ナースコールがあり、東直美看護婦が孝治のベッドサイドに行ったところ、孝治は、人の声が聞こえるなど幻聴があり、眠れない、息苦しいなどと訴えた。東看護婦が孝治に付き添っている間に、有賀医師が、再び孝治を診察しに来た。孝治は依然として興奮状態にあったが、有賀医師は東看護婦に対し、薬を使った後だから、このまま様子をみるようにと指示して、医局へ戻った。

同日午後一一時四〇分ころ、孝治の呼吸が不規則で荒かったため、東看護婦がゆっくり口で深呼吸するよう促し、これに従って孝治は深呼吸をした。しかし、それをやめると呼吸を速くするような感じで息苦しいということを訴え、また、鼻閉感も強く訴えていた。孝治は寝巻を脱いで床に落とし、熱い熱いといってうちわであおいでいた。

東看護婦が、同室の患者が眠れないし、孝治も看護婦がそばにいると安心するだろうと考え、「勤務室の方に行きましょうか。」と声を掛けたところ、孝治も落ち着くからそちらがよいと答えたので、同日午後一一時四五分ころ、東看護婦は、ほかの看護婦と一緒に二、三人で孝治をベッドのまま看護婦室に搬送した。そして、痰を出すよう促したり、深呼吸を促していたが、そのうち孝治が痰がからむと訴えたので、東看護婦が最初の一、二分は吸入し、その後、孝治に「自分で持てますか。」と聞いたら、「自分で持てる。」と答えたので吸入器を手渡して自分で吸入させるようにした。

東看護婦が廊下側のドアを閉めて、カウンターの裏を通って、流しのところへ行き、手を洗っていたところ、孝治のベッドの方からゴトッと音がしたので、孝治のところへ行くと、吸入器が床に落ちていて、孝治の呼吸が引きつるような、小刻みに吸うだけというような不規則な状態になっていた。孝治の顔色も見ている間にどんどんチアノーゼ状態に変化していった。

東看護婦は勤務室内にいた財津看護婦を呼び、電話で当直室に連絡して医師を呼んでもらった。東看護婦は、孝治が呼吸をしやすいようにその顔を横に向け、孝治の脈をみたら弱かったので心臓マッサージを始めた。アンビューバックは東看護婦の手元にはなかったが、財津看護婦がカウンターの右横辺りから、アンビューバックがある救急用のカートを持ってきた。東看護婦と財津看護婦は、アンビューバックを使って人工呼吸をしたり、心臓マッサージを行ったり、血圧や脈を計ったりした。電話で連絡してから五分もたたないうちに津端医師が到着し、その後星野医師、有賀医師が順次到着した。津端医師が到着したときに、東看護婦が孝治の脈をみたが、微弱であった。津端医師はアンビューバックを使って人工呼吸をしながら気管内挿管を試みたが、孝治の下顎が不安定なため、なかなか入らず、星野医師が到着してからは同医師に交代した。星野医師も何回かこれを試みたが、なかなか入らなかった。有賀医師は星野医師の挿管を介助し、有賀医師が到着してから、三度目位に挿管に成功した。一回の挿管にかけるのは三〇秒前後であり、挿管できなければ一度アンビューバックによって酸素で換気しながら、再び挿管を行うので、一回挿管を失敗してアンビューバックで換気する時間は一ないし二分程度であった。挿管して間もなく孝治のチアノーゼはとれ、顔色は元に戻り、脈の強さも回復していった。

8  気管内挿管を終了してから間もなく、孝治はICU(集中治療室)に移動させられた。ICUに移動後は人工呼吸器による呼吸管理、モニターによる循環動態の管理がされた。孝治は、瞳孔三ミリメートル大、対抗反射はプラス、上肢が硬直し、けいれんを頻回に起こし、意識レベルが三〇〇位という状態であった。

同月二九日蘇生後、血圧ガスの測定が行われた。午前一時八分の血液ガス分析検査の結果は、吸入気酸素濃度1.0、pH7.434、炭酸ガス分圧53.5、酸素分圧497.5、過剰塩基10.5であり、午前一時三四分の血圧ガス分析検査の結果は、吸入気酸素濃度0.5、pH7.439、炭酸ガス分圧48.9、酸素分圧124.2、過剰塩基8.4であり、午前二時四八分の血圧ガス分析検査の結果は、吸入気酸素濃度0.5、pH7.459、炭酸ガス分圧41.0、酸素分圧164.9、過剰塩基5.6であり、午前四時〇七分の血圧ガス分析検査の結果は、吸入気酸素濃度0.5、pH7.523、炭酸ガス分圧42.4、酸素分圧198.7、過剰塩基12.1であった。

なお、ICUに移動してから気管切開もされた。

9  その後、孝治に対し、さまざまな治療や諸検査が行われたが、CTスキャンにおいて脳の萎縮が認められ、脳死とはいえないが、その状態に近似した状態と診断された。治療は継続されたが、孝治の意識障害、四肢麻痺の状態は変わらず、同年五月二九日、症状固定となった。孝治は、同年六月一五日に、家族である原告らの希望により鹿児島市立病院へ転院した。

孝治は鹿児島家庭裁判所において禁治産宣告を受け、平成元年一〇月二四日右裁判は確定し、原告哲哉が後見人に就任した。孝治は、本訴提起後、平成三年二月七日午前三時、鹿児島市で死亡した。

二  孝治の呼吸停止、心停止の原因について

1 前記一のとおり、孝治は昭和六三年二月二八日深夜から同月二九日未明にかけて呼吸停止、心停止に至ったものであるが、孝治は、それ以前二日間位にわたり、喘鳴があり、また、興奮して「頭が混乱してよくわからない」「寝ていると起き上がりそうだ」「ここはどこなのか」「自分は立っているような気がする」などとわけのわからない話をし、呼吸時の痰のつっかえ感、呼吸苦を訴え、さらに、呼吸が荒くなり、多量の発汗があるなどのいわゆる不穏状態にあったことが認められる。そこで、孝治の右不穏状態等が低換気状態を示唆するものであったのかどうかについて検討する。

(一) 前記一のとおり、孝治の本件の手術の部位は口腔前庭、頤下部に限定されているが、孝治は、全身麻酔を受けて最初に九時間一五分に及ぶ手術を受け、右手術によって一七〇〇ミリリットル出血し、さらに、数時間後に三時間に及ぶ再手術を受けている。

右事実に、証人釘宮の証言及び鑑定の結果を合わせてみるに、臨床医学的にみて、手術部位は下顎部、切開が及んだのは舌よりも前の部分であっても、口腔底、舌、舌根部、咽頭部、喉頭部などは解剖学的に隣接していて手術操作による影響が全く及ばないとはいえず、むしろ、全身麻酔による呼吸循環への影響、創傷に対する身体的反応、手術に伴う疼痛に対する反応等が組織全体に相当程度の影響を及ぼすと考えられるというのであり、孝治の手術はかなりの長時間に及びその後全身麻酔下の侵襲が継続的に加わっており、全身の血液のほぼ半分に近い出血量で、痛みが持続的にきていることなどから、孝治は、手術部位は限定されていたけれども、手術により相当大きな全身的侵襲を受けたものであり、手術によって、移植片のほか、口腔、咽頭、喉頭を含めた周囲組織に炎症、浮腫が起こっていたものと推認するのが相当である。

証人大森の供述のうち、孝治の手術部位からみて、右手術による孝治の身体への侵襲はそれほど大きなものではなかったと思う旨の供述は、前記一掲記の証拠、証人釘宮の証言及び鑑定の結果に照らしてたやすく採用することができない。

(二) 乙第一号証の一(カルテ)及び乙第一号証の二(看護記録)によれば、担当医師の診断時孝治に肺雑音の所見はなかったが、同月二五日午後九時の段階から、喘鳴が現れ、翌二六日にも喘鳴があり、同月二七日夜には喘鳴が強く、同月二八日になって一旦軽減したが、同日午後二時ころには再び強くなっていること、同時に孝治は看護婦に口腔内の乾燥、痰のつっかえ感、呼吸苦等を訴え、多量の発汗もあったことが認められる。

そして、証人釘宮豊城の証言及び鑑定の結果によれば、釘宮医師は、喘鳴とはヒュウヒュウ、ザアザアというような風が吹いているような音が呼吸時に起こる場合をいい、気道の狭窄、狭小により空気の通るところが細くなったりすると、その部分の通るところの気流が速くなり、乱流が発生して、そのために雑音として聞こえてくるものであるので、喘鳴が出るということは、気道が正常な状態ではなく、何らかの障害がある、つまり、狭窄、狭小の状況にあると考えられること、気流の速いところ、すなわち、上気道、口腔、咽頭、喉頭、気管、主気管支あたりまでで狭小が起きると喘鳴という症状が出てくること、肺雑音というのは、主気管支以下での問題に対して使われ、孝治の場合には肺炎や肺水腫などの肺胞若しくはそれに近い部分での問題はないと考えられるので、喘鳴と肺雑音とは全く別問題として考えるべきことである旨の見解を述べている。前記(一)で検討したとおり、孝治は本件手術により相当大きな全身的侵襲を受けたものであり、右手術によって移植片のほか、口腔、咽頭、喉頭を含めた周囲組織に炎症、浮腫が起こっていたものと推認されること、前記一認定のとおり、孝治には口腔内における分泌物及び血液の貯留があり、絶えず吸引を行っていたこと、孝治が呼吸苦、痰のからみなどを訴えていたなどのその他の症状をも考慮すれば、右の同日二五日夜から同月二八日にかけて存在した孝治の喘鳴は、単なる口腔内の雑音にすぎないということはできず、右鑑定及び証人釘宮の見解にあるとおりの本来的な意味における喘鳴であると認めるのが相当である。

そして、甲第九号証、証人釘宮の証言及び鑑定の結果によれば、(1) 気道の狭窄、狭小により低換気状態が生じ、低換気状態は高炭酸症、低酸素症を生じさせ、また、高炭酸症、低酸素症はそれが軽度の場合、呼吸苦が生ずるほか、興奮状態で多弁、不眠となり、幻覚、幻聴があるなどの精神状態も生ずる、また、発汗、発熱もこれに関係があると考えられる、(2) 孝治の心停止後、蘇生措置が行われた直後の血液ガス分析の結果では、炭酸ガス分圧五三となっていて高炭酸状態にあったものであり、このことは孝治が心停止以前において高炭酸状態になっていたことを推認させるものである、(3) 気道の狭小等があると、自分で強く呼吸をしようとし、それが気道の狭小等を助長する、孝治には発熱があったから、その面からも呼吸が強くなったと推認されるというのであり、右によれば、孝治は、遅くとも昭和六三年二月二八日の段階において気道の狭窄、狭小により低換気状態に陥り、高炭酸症、低酸素症が生じていたものであり、孝治の前記不穏状態も主として右高炭酸症、低酸素症によって引き起こされたものと推認される。

(三) 証人有賀、同小林、同大森は、孝治の前記不穏状態は、術後の不安等に基づく精神症状にすぎず、低換気状態からくるものではない旨供述するところ、証人釘宮の証言及び鑑定の結果によれば、拘禁状態、絶飲食によっても精神症状が発生するものであり、孝治の右不穏状態にこのようないわゆるICUシンドロームが複合的に作用していた可能性は否定できない。しかしながら、当時の孝治の主訴や各種の症状、殊に孝治がしきりに呼吸苦を訴え、喘鳴があったことを考慮すると、右不穏状態が右のような単なる精神症状にすぎないということはできない。

また、前記一のとおり、孝治は同月二六日位から興奮状態にあり、多弁であったところ、証人大森は多弁であったということと患者が低酸素状態に陥っているということは普通は両立しないものであり、低酸素状態にあれば意識が混濁してくるから喋れなくなると供述している。しかし、甲第九号証及び証人釘宮の証言によれば、低酸素症、高炭酸症が軽度の場合には多弁状態、興奮状態というのが起こっても不思議はないこと、孝治はかなり代償機能を働かせて頑張って呼吸していたと推測できることが認められるのであって、多弁で、興奮状態にあったという事実のみから、当時孝治が低酸素状態になかったということはできない。

さらに、前記一のとおり、孝治には、昭和六三年二月二八日深夜の異常事態発生までチアノーゼはなかったこと、皮弁の色調の変化のチェックでは血液は非常にきれいな色をしていたことが認められる。しかし、甲第九号証及び証人釘宮の証言によれば、低酸素症とチアノーゼとはある程度の相関関係にあるが必ずしも対応するものではなく、チアノーゼがないこと自体が低酸素症を否定するものではなく、特に高炭酸症に関しては血の色を見ただけでは全く分からないこと、本件では血液ガス測定をしていないというのであり、したがって、孝治にはチアノーゼが異常事態発生直前まで見られなかったことから直ちに、孝治が低換気状態になく、孝治に低酸素症が生じていなかったということはできない。

2  証人釘宮の証言によれば、呼吸停止、心停止を起こす原因としては、(1) 気道閉塞のほか、(2) 心筋梗塞、脳内出血若しくは脳梗塞、(3) 喘息の強烈な発作とかが考えられるというのであるが、前記一のとおり、孝治は、本件手術前においては下顎の欠損があるほか健康な状態にあり、手術前の検査では何らの異常もなかったものであり、本件において、孝治が(2)や(3)の原因で呼吸停止、心停止に至ったとする形跡は何ら存在しない。

3 以上検討した結果に証人釘宮の証言及び鑑定の結果を綜合すると、孝治は、本件手術の下顎部を中心とする侵襲により周囲組織の浮腫、炎症、移植片の浮腫、血液及び分泌物の貯留などを原因とする気道の狭窄、狭小が生じて低換気状態に陥り、その結果低酸素症、高炭酸症が生じ、孝治はそれでも代償機能を最大限に働かせて一生懸命呼吸していたところ、右症状に、精神症状、睡眠不足等が加わり疲労が蓄積し徐々に代償機能が低下し、自分で強く吸い込むということ自体がさらに気道狭小を助長するということもあって、最終的には、右気道狭小の要因の一つが急性に増悪し、気道狭小を著しく悪化させたか、あるいは口腔内に貯留していた血液又は分泌物を誤って咽頭、喉頭部に吸い込み、その時点では、孝治は右疲労に加え、咽頭、喉頭部の浮腫等による機能不全、あるいは低酸素症、高炭酸症等により意識が希薄になるなどの意識状態の変化が生じていて、気道の著しい狭小状態又は気道閉塞の状態を自分で是正することができず、その結果、気道閉塞により呼吸停止、心停止に至ったものと認めるのが相当である。

なお、証人釘宮の証言及び鑑定の結果によれば、本件では、孝治は手術により身体への相当大きな侵襲を受けており、疲労も重なっていて、低換気状態に起因する精神症状も現れていたことから、昭和六三年二月二八日夜における有賀医師の指示による精神安定剤であるホリゾンの投与が右精神状態の変化に何らかの影響を与えた可能性があると認められる。

三  責任原因について

1  術後管理について

(一) 前記二のとおり、孝治は心停止前二日間にわたり低換気状態に陥っていて、その後極度の体力消耗と代償機能の低下により気道閉塞を起こし、呼吸停止、心停止に至ったものと認められるところ、鑑定の結果及び証人釘宮の証言によれば、昭和六三年二月二八日午後一〇時の段階で、エアウェイ挿入、気管内挿管若しくは気管切開などの措置により気道の確保と酸素投与を図れば救命可能性はかなり高くなった、つまり孝治の呼吸停止、心停止は起こらなかった可能性が非常に高いと認められる。

(二) ところで、証人東、同小林、同大森の各証言及び弁論の全趣旨によれば、被告病院は人的にも設備の面でも充実した総合病院であって、形成外科の分野では我が国でも優れた技術を有し、多数の患者を抱え、手術も多数手掛けている病院であると認められ(孝治が入院していた外科、形成外科の混合病棟のベッド数だけでも七〇床前後存在した。)、また、前記一のとおり、被告病院では入院患者については完全看護体制をとり、術後例外的に許可していた原告ミチの夜間の付添いも昭和六三年二月二六日夜から不許可になっていたものであり、孝治が全身麻酔の下に長時間にわたる手術を受け、その際の出血量も多量であったことを考慮すれば、被告病院としては、孝治の術後の健康状態の観察、管理を細心の注意をもって行い、何らかの異常な兆候を発見したときには、孝治の生命に危険が及ばないように速やかに必要な検査、措置をなすべき高度の注意義務を負っていたものと解すべきである。

本件について右注意義務が尽くされたかどうかについて検討するに、前記一認定の事実に乙第一号証の二、証人小林及び同有賀の各証言によれば、孝治は同月二五日の段階で喘鳴があり、翌日にも喘鳴があり、同月二七日夜には喘鳴が強く現れ、同月二八日になって一旦それが軽減したものの、午前中口腔内の乾燥が強いと訴え、同日午後二時にはまた喘鳴が強くなっていること、孝治は頻繁にわたりナースコールをし、看護婦にしきりに痰のつっかえ感、呼吸苦を訴え、興奮して「頭が混乱してよくわからない」「寝ていると突然起き上がりそうだ」「ここはどこなのか」「自分は立っているような気がする」とわけのわからないことを話し、また、同月二八日午後一〇時ころ、孝治は呼吸が荒く、多量の発汗があり、看護婦が入眠を促したが、興奮して多弁であったこと、そこで、担当の看護婦は医局に詰めていた当直医の有賀医師に連絡して来てもらい、孝治の診察を要請したこと、有賀医師が診察を終え医局に戻った後も、孝治は呼吸苦、鼻閉感を訴え、熱い熱いといって寝巻を脱いだりしていたこと、孝治の右の喘鳴や不穏状態については看護婦は十分認識していたものであり、看護記録にもその旨の記載があること、孝治の受持医である小林医師は、同月二七日夕方までの間において、右看護記録に目を通しているのに、右喘鳴等の各記載に注意を払わず、孝治の健康状態に特に問題はないと判断し、同月二七日夕方に帰宅するときに孝治の件について何らの引き継ぎもしていないこと、同月二八日夜に担当看護婦から診察の依頼を受けた有賀医師は、看護婦から孝治の症状について事情を聴いたが、孝治は興奮状態にあるが、これは術後の精神的不安によるものにすぎないと判断し、精神安定剤であるホリゾンを注射するよう担当看護婦に指示したのみで医局に戻ったこと、同日午後一一時三〇分ころ、孝治はナースコールをし、担当看護婦に対し眠れない、息苦しいなどと訴えていること、有賀医師は同日午後一一時三〇分過ぎころにも孝治を診察しているが、このまま様子をみるように指示しただけで医局に戻っていることが認められる。そして、前記二1のとおり、低酸素症、高炭酸症が軽度の場合には、呼吸苦が生ずるほか、興奮状態で多弁、不眠となり、幻覚、幻聴があるなどの精神状態も生ずる、また、発汗、発熱もこれに関係があると考えられるというのである。

右の事実関係によれば、小林医師は、看護記録の喘鳴、呼吸苦の訴え等の記載に注意を払い、担当看護婦から孝治の主訴、症状の経過について十分な聴取を行っていれば、孝治が低換気状態に陥っていること又は陥る恐れのあることを予見できたものというべきであり、したがって、帰宅するに当たっては、当直医にその旨の引き継ぎをすべきものであったと考えられ、また、有賀医師の場合、同月二八日の夜に担当看護婦から孝治の様子がおかしいということで診察の要請を受け、孝治が興奮状態にあり、わけのわからないことを話すのを聞いていて、看護婦から孝治について呼吸が荒く、興奮して多弁である、幻覚、幻聴があるとの報告を受けているのであるから、看護記録について十分に検討するとともに、さらに孝治の症状について注意深く観察をしていれば、孝治が低換気状態に陥っているとの疑いを持ち、血液ガス測定の検査を行うことができたものと考えられ、また、これを実施していれば、孝治が低換気状態に陥っていて、そのため不穏状態にあることを知ることができ、したがって、その段階において、他の医師の応援を受けてエアウェイ挿入、気管内挿管又は気管切開など気道確保の措置をとることが可能であったと認めるのが相当である。

証人大森、同小林の各証言及び原告ミチ本人尋問の結果によれば、孝治は術前には下顎がないという点を除けば若くて非常に元気のよい患者であったことが認められるところ、前記一認定の事実及び証人釘宮の証言に照らしてみると、孝治は医師の前では代償機能を精一杯働かせて頑張っていたので、医師が診察に来たときだけは喘鳴もほとんどない比較的良好な状態にみえたが、夜中に誰もいなくなると喘鳴があり、呼吸苦を訴えるなど具合が悪くなり、そのたびにナースコールをし、担当看護婦が声をかけると再び意識がはっきりしてやや元気を取り戻すという状態にあったということも考えられるところであり、そのことが、担当医師において孝治の症状について誤解を生じさせたということがあったかも知れない。しかしながら、被告病院の担当医師は前記のとおりの高度の注意義務を負っていたのであるから、自己の診察時の孝治の状態だけでなく、看護記録に目を通し、看護婦から症状の経過を聴取して、孝治の症状について総合的な診断を下すべきであり、右のような事情があったことをもって直ちに、被告病院の担当医師に孝治が低換気状態に陥っていることについての予見可能性がなかったとするわけにはいかない。

そうすると、被告病院の担当医師らには孝治の主訴、各種の症状から孝治が低換気状態に陥っていることを疑い、血液ガス検査など必要な検査を行った上、右低換気状態を改善するための適切な措置を講ずべき注意義務があったのに、同医師らはこれを怠り、そのため、低換気状態にある孝治を呼吸停止、心停止に至らしめたものというべきであり、同医師らは右の点において過失があるといわざるを得ない。

2  被告は、孝治に対し診療契約上の債務不履行責任に基づき孝治に生じた損害を賠償する義務があり、また、被告病院の担当医師を雇用している法人として、不法行為上の使用者責任に基づき孝治及び孝治の両親である原告らが受けた損害を賠償する義務があるというべきである。

四  損害について

1  孝治の損害

(一) 休業損害

前記第二の二のとおり、孝治は、昭和四三年三月二日生まれの男性であり、昭和六三年二月二九日の心停止後、意識障害、四肢麻痺の遷延性昏睡状態にあり、平成三年二月七日に死亡したものである。

前記二認定の事実及び原告ミチ本人尋問の結果並びに弁論の全趣旨によれば、孝治は昭和五四年八月下顎骨繊維性骨異形成症との診断を受け、昭和五六年一〇月までの間に数回にわたる手術を受け、下顎骨を全部摘出されたが、その後は健康を取り戻し、高校を卒業して、本件手術前までは鹿児島市役所の臨時職員として勤務していたものであり、本件事故がなければ、当裁判所に顕著な昭和六三年賃金センサス第一巻第一表産業計、企業規模計、新高卒の男子労働者二〇歳ないし二四歳の平均給与年額二六九万四八〇〇円の八割に相当する二一五万五八四〇円を本件事故後死亡に至るまでの約三年間得ることができたと推認される。孝治が右金額を超える収入を得ることができたと認めるに足りる的確な証拠はない。

そこで、中間利息をライプニッツ方式により控除して計算すると、次の計算式のとおり、昏睡状態になってから死亡に至るまでの休業損害は、五八七万〇七八三円(円未満切捨て)となる。

2,155,840×2.7232≒5,870,783

(二) 逸失利益

孝治は、平成三年二月七日死亡したが、同年三月二日に満二三歳の誕生日を迎えるはずであったから、本件事故によって遷延性昏睡状態となり数年間生存した後死亡するに至らなければ、満六七歳までの約四四年間にわたり稼働することができたものと推認される。この間、孝治は、少なくとも当裁判所に顕著な平成元年賃金センサス第一巻第一表産業計、企業規模計、新高卒の男子労働者全年齢の平均給与年額四五五万二三〇〇円と同程度の収入を得ることができたと認めるのが相当である。そして、その間の生活費は収入の五割と考えられるから、中間利息をライプニッツ方式により控除して計算すると、次の計算式のとおり、孝治の死亡による逸失利益は、三四七二万九〇四一円(円未満切捨て)となる。

4,552,300×(1−0.5)×(17.9810−2.7232)≒34,729,041

(三) 治療費

甲第六号証の一ないし一二によれば、昭和六三年二月一八日から同年六月一五日までの治療費として、被告から孝治に対し三五〇万九〇八五円が請求され支払われていることが認められ、弁論の全趣旨によれば、そのうち一〇九万三〇五〇円が保険負担額と認められるから、自己負担額は右請求額から保険負担額を控除した二四一万六〇三五円であり、これが損害であると認められる。

(四) 付添介護料

甲第七号証の一ないし七〇、第八号証の一ないし七四によれば、原告らは、孝治の付添介護のため職業付添人を雇い、昭和六三年八月から平成三年一月までの間、右付添人(家政婦)の賃金として合計四六九万五七〇〇円を支払い、昭和六三年七月一日から平成二年一二月までの間に、右付添人の紹介手数料として合計五〇万五七七七円を支払い、合計五二〇万一四七七円(原告らは合計五七〇万七二五四円と主張するが計算違いであると解される。)を支出したことが認められ、弁論の全趣旨によれば、右家政婦賃金のうち一八七万八二八〇円が保険負担額と認められるから、自己負担額は右合計額から保険負担額を控除した三三二万三一九七円であり、これが損害であると認められる。

(五) 慰謝料

甲第五号証、原告ミチ本人尋問の結果及び弁論の全趣旨によれば、孝治は前途ある若い独身男性であり、今回の一連の手術で下顎骨を形成し、通常人と変わらぬ生活を送ることができるようになることを大いに期待しており、下顎骨を形成した後に定職につく等希望に満ちた人生設計をしていたこと、しかるに、本件の事故により心停止を起こして遷延性昏睡状態になり、約三年間生存した後死亡したことが認められ、右事実のほか本件の諸般の事情を鑑みると、孝治の慰謝料は、一五〇〇万円と認めるのが相当である。

(六) 葬儀費用

弁論の全趣旨によれば、原告らが孝治の葬儀を行い、右葬儀費用として少なくとも一〇〇万円程度を支出したであろうことが推認できる。原告らが右金額を超えて支出したとの証拠はないから、一〇〇万円を損害と認めるのが相当である。

(七) 以上のとおり、孝治の損害(一)ないし(六)の合計額は六二三三万九〇五六円となる。孝治の死亡に伴い、孝治の両親である原告らは孝治の被告に対する右損害賠償請求権を法定相続分の二分の一ずつ相続したものであり、その額は三一一六万九五二八円となる。

2  原告ら固有の損害

前記第二の二の事実に甲第五号証、原告ミチ本人尋問の結果及び弁論の全趣旨を合わせると、孝治の両親である原告らは、孝治が下顎骨の繊維性骨異形成症を発病して以来、金銭的な負担に耐えながら孝治を精神的にも支えてきたこと、今回の手術は、鹿児島に居住する原告らにとって距離的にも、経済的にも大きな負担ではあったが、この手術によって下顎骨を形成し孝治が普通の人と変わらぬ生活を送れるようになることを親として大いに期待していていたこと、しかし、孝治は本件の事故により心停止を起こして遷延性昏睡状態になり、約三年間生存した後死亡したことが認められ、これらの事実のほか、原告らは孝治の相続人であり、孝治の損害賠償請求権を相続する関係にあること等本件の諸般の事情を考慮すると、原告らが孝治の死亡によって被った精神的苦痛に対する慰謝料は各一五〇万円が相当であると認められる。

3  弁護士費用

本件記録及び弁論の全趣旨によれば、原告ら及び孝治が本訴を提起し、孝治は本訴提起後に死亡し、原告らが孝治の訴訟を承継したこと、本訴の追行を弁護士たる本件訴訟代理人らに委任し報酬の支払を約したことが認められるところ、本件事案の難易、審理経過、本訴認容額などの諸般の事情を考慮すると、本件事故と相当因果関係にある費用としては、原告ら各人につき各三〇〇万円と認めるのが相当である。

五  結論

以上の次第で、原告らの本件請求は、被告に対し各三五六六万九五二八円及びこれに対する不法行為後である平成二年二月一日(訴状送達の日の翌日)から支払済みまで民法所定の年五分の割合による遅延損害金の支払を求める限度で理由があるからこれを認容し、その余は失当であるからこれを棄却することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法八九条、九二条、九三条を、仮執行の宣言につき同法一九六条をそれぞれ適用して、主文のとおり判決する。

(裁判長裁判官青栁馨 裁判官山田陽三 裁判官廣瀬典子)

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